その一 移住先を探す
2003年の秋、32年間住み慣れた柏崎市から、九十九里浜のはずれに在る岬町(今は、いすみ市)に移住した。移住を考えた時に心配したことは、雪国新潟から太平洋に面した温暖な千葉へと、全く環境の違う土地で今までと同じような人間関係を作り、毎日を楽しく過ごせるかどうかであったが、結果は案ずるより生むが易しだった。
私と妻が移住を考え始めた理由の根っこには、2人が三男、次女であり守るべき家もなく身軽であったということがあった。
引っ越しを決めるに当たっては、一人息子の勤務先を重視した。大学を卒業した息子が勤めた先はヨーロッパに本社のある銀行であった。この銀行は世界の主要都市に支店があり、日本では東京だけに支店を構えていた。息子が就職した時点で、もう柏崎には帰って来ないだろうから、自分達の方が東京の近くに住んだ方が、互いの都合がよいのではないかと考え、関東圏に移住することを決めた。
候補地選びを始めたのは定年の2年前であった。雪が降らないこと、東京駅まで1時間前後で行けること、最後に最寄りの駅まで歩いて10分以内で行けること、というのが大まかな条件であった。
まずは伊豆の伊東や熱海、次いで横浜や三浦半島と捜し歩いた。しかし、どれも「帯に短し襷に長し」だ。その後いろいろ考えた結果、千葉県に候補地を絞った。最終的に岬町に決めたのは、土地を紹介してくれた「S土地」の奥さんが上越市の出身と聴いたからであった。「決まる時には以外とあっけなく決まるものだな」と思った。
その二 移住先での生活
岬町の今の住まいは、東京駅までは約1時間、成田空港にも1時間ちょっと、最寄りの駅までは徒歩6分という距離でとても快適である。ただ、一つだけ誤算であったことは、強風の吹く日が多いということであるが、それも裏返せばこの風のお陰で夏はクーラーを掛けなくても涼しいという利点もある。
有り余る時間をどう過ごすか。まず浮かんだのは海が近いから取りあえず釣りでもするかと考えた。柏崎でも友人とたまの休日に海釣りに出かけたので、釣竿は何本か持って来ていた。最も近い港の堤防に行き、竿をたらして見てすぐにがっかりした。
釣れるのは豆アジだけで、それもポツリポツリという状態。なんとも味気無いのである。その上、ギャラリーが大勢居てとても煩わしい。「ここは駄目だからあっちの方がよい」とか、「仕掛けがそれじゃあ駄目だ」とか、「餌は何でなければいけない」とか、いろいろと講釈をたれるのである。自分はだんだんに腹が立ってきた。内心、「余計なお世話だ。そんなことを言うなら、自分で竿を持って来て釣ればいいじゃん。とにかく煩くて魚が逃げるのであっちへ行ってくれ」と言う心境であった。
定年になったはいいものの、行き場所のない元気なお年寄りがわんさといるようだ。『欲しかった自由と時間を持て余し』の心境であろうか。これは日本の社会の縮図のような気がする。
その三 現在の生活
次に始めたのは、今度は妻と一緒の山歩きだった。ところが千葉県で最も高い山は愛宕山で約400メートル。それでも定番の富山・伊予ガ岳・御殿山には登った。足慣らしには丁度よかったが、やはり物足りず西日本以外の山に対象を広げることにした。
自分たちの山歩きは60歳を過ぎてから始めたこともあって、遭難事故を起こして他人様に迷惑を掛けない為に決して無理はしない、天候の急変があったり、体調が悪くなった場合は山頂が見えていても直ちに引き返す。宿泊を伴う場合は「前泊日帰り」登山とするなど決まりを作り守っていた。
最初に登った山は「木曽駒ヶ岳」であった。標高こそ2957Mと高いものの比較的登りやすい山で、コースタイムよりず~と早く登り早く下山できた。これに気をよくした私たちは、朝日岳・茶臼岳・天狗岳・谷川岳・硫黄岳・金峰山と登り、その後は東北の岩木山・八甲田山・秋田駒・北海道の旭岳・黒岳と活動範囲を広げていった。山のおもしろさにはまり、定年後の10年間で70座を越える山に登った。山の魅力、それは頂に立った時の圧倒的な眺めと爽快感、達成感。可憐で鮮やかな彩りで迎えてくれる高山植物、かもしかなどの小動物、小鳥のさえずり、これらの景物にこころ癒やされゆったりとした気持ちになれることであろうか。
下山後のんびりと温泉に漬かりながら、「次は何処にしょうか」と考えるのがまた無上の楽しみであった。「病膏肓に入る」で、とうとう海外にまで足を延ばし、念願だったスイスやオーストラリア(タスマニア)でのハイキングも楽しむことが出来た。妻は、岬町の時から「食生活改善協議会」というボランティアの活動に参加していたが、今は役員となり仕事が大幅に増え、あちらこちらと忙しく飛び回っている。
自分は、後期高齢者の仲間入りをしたことでもあり、山歩きもここらが潮時であろうと考え自粛している。今は頭がこれ以上錆つかないた
め、月一回「万葉集」の勉強会に参加し、カルチャーセンターにも顔を出している。気が向けば自分が好きな甲府や石和(山梨県笛吹市)、熱海などの温泉に行ったり、街歩きを一人で楽しんでいる。
移住して少し経った頃、市川へ用事で出かけたことが有った。たまたま駅の近くで、『相田みつを展』をやっていたので入ってみた。主催者に声を掛けられいろいろ話をしてその帰り際、色紙に「人生は後半が面白いとか……」と書いてくれたが、今改めてそのことを実感している。
新潟公立高退教