西日本豪雨・愛媛被災の記録

7日早朝5時、各戸に取り付けられた災害用無線機から、「避難指示発令」を告げる声が流れました。地元の消防団員が来て、「ダムの放流量は今までに無いものになる。ここも危険です。」と告げました。彼の真剣な表情を見て避難所に向かったのですが、家の下の田畑が浸かるくらいに思っていました。

避難所に入って間もなく、町内全てが停電しました。雨の切れ間に避難所から出てみると、商店街が軒並み1~2m浸水しており、保育所は屋根まで水没していました。その内、水道も止まりました。テレビも携帯電話も使えず、死者5名、床上浸水580戸という大きな被害が出ていることを知ったのは、3日後のことでした。

我が家は石垣の上に建っているため床上浸水は免れましたが、車庫には汚泥が30cmほど積もり、避難所に持って行かなかった妻の車は屋根に流木が乗っていました。我が家の片付けが続いていたある朝、「何やら、うなされとったよ。」と妻に言われました。電気も水道も情報もない生活は、精神的にも辛いものでした。

片付けが一段落し、高齢の女性のお宅に泥除け作業に出かけました。長靴が埋もれそうなほど貯まった汚泥は重く、ガラスで手を切らぬよう気をつけながらの作業です。古釘を踏み抜いたこともありました。暑さと汚泥の臭い、目にしみる埃の中での作業でしたが、地元の中・高校生や帰省した大学生たちの溌剌とした姿が、気持ちを奮い立たせてくれました。消防団員や市職員のきびきびとした姿にも、勇気づけられました。全国各地の知人から、支援物資が届くようになりました。
作業の疲れもあるのでしょうが、この頃から、やっと眠れるようになっていきました。「人は、人に会ってこそ、元気をもらえるんだ。」ということを、深く実感しました。

あれから2ヶ月が経ちました。浸水した家では、泥出しの後、床や壁をはがした柱だけのお宅が目立ちます。その地で再建するのを迷っている方が多いのです。商店街で再建、開業したのは、1割程度です。保育所は、いまだに学童保育所に間借りです。

私が住んでいる地域には、数年前に防災委員会が設置されていたのですが、実質的な活動は停滞していました。先日、地区の常会で提案し、災害発生時に一人での避難が困難な方を支援するための「声かけ名簿」の作成を始めました。8月27日、7月7日のダム放流について考えようという「野村ダム放流を検証する住民の会」が結成され、私も運営委員の1人になりました。被害を二度と繰り返さないための活動が進んでいます。今回の被災を無駄にせず、今後につなげていきたいというのが、今一番の願いです。

愛媛県退教協

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