朝刊を開くといつも読者からの「声」欄を読むようにしている。最近の切抜きから紹介する。
戦中日本の植民地であった朝鮮で軍国少女の一人に育った女性は、日中戦争における南京陥落の祝勝ちょうちん行列の興奮や国民学校での勤労奉仕、「欲しがりません勝つまでは」の銃後の生活を振り返り、『教育がどれほど大事かと思う。戦時中個人の意思、自由など一切なく、ただ為政者の旗に操られ、「一億総火の玉」と戦ったのが悔しい』と書かれている。
82歳の京都の女性は、戦後の新制中学の男女共学や情操教育、芸術教育、湯川博士のノーベル賞受賞の興奮を回想し、「日本は変わるのだという雰囲気が世の中に満ち溢れていた。何もかも新しく作りあげていこうと張り切っていたあの頃を懐かしく思い、政治家に教育勅語をうんぬんされる昨今を不思議とも情けなくも思う」と新憲法下の希望に満ちた戦後教育を懐かしみ、昨今の世を憂いておられる。
10月23日の明治改元の日を記念し、政府が主催した明治維新150年を祝う式典で、安倍首相は、「明治の人々が勇気と英断、たゆまぬ努力、奮闘により、世界に向けて胸を開き、新しい時代の扉を開けた」と式辞を述べた。しかしこれはきわめて一面的な「明治」礼賛であり、日本の近代史を振り返れば、先の戦争が終結した明治以降の77年は、国民が辛苦に耐えた「戦争の時代」であったと言っても過言ではない。
振り返ると幕末の熾烈な政権争いと戊辰戦争を経て明治が到来する。この時に象徴的なのが彰義隊であった。新政府の処置に反発して上野の寛永寺に集まった1500余名の人々を、近代的装備で固めた2万余名の官軍が半日で壊滅させる。「賊軍」として彰義隊士の遺体はそのまま捨て置かれ、官軍側の死者は江戸城で招魂された後に「東京招魂社」に祀られ、これが今の靖国神社の起源となった。ご承知のようにこの神社は、その後天皇の軍隊として侵略戦争に駆り出された青年たちをして「靖国で会おう」と鼓舞せしめ、命を賭して戦う特攻精神の支柱となった。
一方教育勅語は学校教育における軍国主義教育推進のために時の長州出身の「日本軍閥の祖」といわれる山県有朋の内閣の時につくられる。1890(明治23)年5月に山県の命を受けた時の文部大臣や法制局長官、一部学者が原案を作成する。わずか5か月後の10月30日には、黒に金の菊の紋がついた箱に入れられ、金色の罫紙に書かれた315文字の勅語が下賜された。
この勅語には一般の詔勅と違って内閣大臣の副署(署名)が無く、ただ御名と御璽だけで、その理由は副署のある詔勅と同様に発布しては後日に政変で消えてしまうかもしれないという恐れと、アジアのあらゆる民族やその地に、天皇の治世を拡大させることを狙い、いわゆる「八紘一宇」精神の普遍化を狙ったものであった。「教育勅語の日」の10月30日には全国の学校で式典があり、式場に整列した生徒たちは、東の皇居に向けて遥拝し、礼服白手袋で勅語を手にした校長は、壇上で直立不動の姿勢で読み上げ、その後、「神国臣民」の生き方が説かれ、最後は万歳三唱で締めくくられた。終戦に至るまで「皇民化教育」はこのように連綿と摺込まれていったことを忘れてはならない。
しかし今、自民党を中心とする国会議員の靖国参拝や森友学園の園児に対する勅語暗唱や現文科省大臣の勅語容認発言もあり、負の亡霊は今でもさまよっている。憲法審査会の新役員に改憲強硬派を据えて、再び若者が血を流す時代に戻そうとする安倍政治とは、早急に決別していかしていかなくてはならない。
滋賀高退教